著者:王敏(法政大学名誉教授、当財団参与)
掲載元:『客観日本』2021年2月25日(原題「当中国的九尾狐“逃”到日本之后」)
九尾すしの話
1991年の春、私は授業のために毎週東京から静岡県の日本大学に通っており、いつも新幹線に乗って三島駅で降りていた。あるとき、駅の商店に並んでいる弁当の中に、色鮮やかでかわいらしい狐の絵が印刷してあるものを見つけた。これはあの、9本の尻尾を生やした白面金毛の狐ではないか。再び包装に目を落とすと、「九尾すし」の文字が並んでいる。私は大いに驚いた。中国の伝説にある「九尾(きゅうび)の狐」を即座に連想したのだ。もしこの九尾の狐と中国の九尾の狐との間に本当に関係があるのなら、どうして日本では駅弁の包装紙の上に堂々とその絵を描くことができるのだろう。
中国では、九尾の狐は美女に化けて人々に災いをもたらすという印象が拭いがたい。これは大部分、明朝後期に成った小説『封神演義(ほうしんえんぎ)』によるものだ。『封神演義』はたくさんの魅力的な物語により、中国古代の殷朝が滅亡し周朝が勃興した時代を描き出す。殷朝が滅びたとき、九尾の狐はそれまでとり憑いていた美女・妲己(だっき)の身体を離れ、行方をくらました。数百年の後、九尾の狐は再び美女・褒姒(ほうじ)に化けて周の幽王を惑わした
。それゆえ、九尾の狐はドブネズミのように人々から憎まれる存在になったのだ。
私はすぐに弁当を作る業者に電話をかけ、九尾の狐の典拠を尋ねた。業者は「九尾の狐の前世での悪行は誰もが知っていますが、今世の素朴で清純なイメージは憧れの対象です」という。その業者によれば、「九尾すし」以外にも「九尾釜めし」、「九尾大名弁当」など九尾の狐を名に冠した様々な食品が販売されているらしい。東京駅八重洲地下街の専門店に行ってみると、やはりあのかわいらしい狐をあしらった様々な弁当が目に入った。
中国人は普通、九尾の狐を幽霊・妖怪の類として扱っているが、日本人はそれを受け入れている。この違いは何を物語っているのだろう。原因はいったいどこにあるのだろう。答えは日中の文化的差異の中に見つけ出せるに違いない、と私は考えた。そこで私は日本の様々な文献を調べ、九尾の狐が日本に行ったという記載があるのを発見した。阿倍仲麻呂と並び称される才人であった吉備真備(きびの・まきび)は717年に唐に渡り、734年に帰国、752-753年に再び唐を訪れた。九尾の狐は彼の一回目の帰国の際、同じ船に乗って日本に渡ったのだ。
吉備真備の船が唐を離れて3日目、船の中に突然、年の頃は16、7の美女が現れた。彼女は唐の玄宗の大臣である司馬元修の娘を自称し、日本の風物に強い興味があったのでこっそり逃げてきたのだと言う。彼女はもし一緒に日本に連れて行ってくれないのならすぐに海に飛び込んで自殺すると宣言した。しかも船はもう唐の国土から遠く離れてしまっている。吉備真備は彼女の本意を遂げさせることにした。しかし船が博多湾に着いたとき、少女は行くべき場所を知らなかった。九尾の狐が殷の紂王を魅惑してから1800年以上、周の幽王を弄んでからは1500年以上が経っていた。
九尾の狐は日本にやってきてからも行動を改めず、平安時代の有名な美女・玉藻前(たまものまえ)に化けて鳥羽上皇の寵愛を得たが、後に法師に正体を見破られて逃亡した。
王敏氏の日中文化に関する著作。九尾の狐についても触れている。
日本の九尾の狐伝説
日本の文献の中で確認されている九尾の狐に関する記載としては、まず1444年(文安元年、室町時代)に成立した字典『下学集』(かがくしゅう、作者不詳)が挙げられる。この文献は全て漢文で書かれており、語句を解釈すると同時にその語源を簡潔かつ的確に遡っている。その中で九尾の狐に関する以下のような物語が紹介されている。九尾の狐はまず天竺の耶竭陀国(マガダ国、
今のインド)で斑足太子(はんぞくたいし)の妃・華陽に化け、紆余曲折を経て中国を訪れ、前述の通り国に波乱をもたらした挙句、日本に渡り、そこでまたお得意の芝居を打った――つまり、美女「玉藻前」に化けて「君主を惑わす化け狐」の日本版を演じたのである。
「玉藻前」は実在した。しかしそれは鳥羽上皇の后・得子(院号は「美福門院」)のことである。文献の記載によれば、鳥羽上皇が病重かったとき、安倍晴明(921-1005)が法術を使って玉藻前にとり憑いた九尾の狐を追い出した。謡曲『殺生石』(せっしょうせき)の描写によると、九尾の狐は一筋の煙に化けて東に飛び、奇妙な形の大石になって栃木県那須高原に横たわったという。しかしこの石はなお妖気を失わず、近くを通りがかる人を傷つけたため、「殺生石」と呼ばれたのだ。
南北朝時代に、会津慶徳寺の開山で法号を玄翁(または源翁、1329-1400)といった曹洞宗の僧侶が那須高原を行脚し、殺生石の前で誦経して、九尾の狐の魂を慰めた。ここに至ってインド・中国・日本の3国に無数の災難をもたらした九尾の狐はついに安息を得たのである。
将軍足利義満(在位1368-1394)は玄翁和尚を表彰して米千石を送った。後小松天皇(在位1382-1412)も玄翁和尚に「能照法王禅師」の称号を賜った。今でも那須高原に行けば「殺生石」を見ることができ、誰もが知る観光地となっている。松尾芭蕉(1644-1694)までもが那須高原へ行き、『奥の細道』に次のように書いている。
殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す。
芭蕉はその場所に句碑まで立てた。曰く、「飛ぶものは雲ばかりなり石の上」。芭蕉は俳人の「恬淡とした閑寂」の心で、この人里離れた山野と一体になった九尾の狐を受け入れていたに違いない。
生前は多くの悪事を働いたとしても、死後は慈悲の心をもって接する。ここに、死者を追いかけて情け容赦なく叩くようなことはしないという日本人の文化的特徴が表れている。
室町時代(中国の明朝初期)以来、九尾の狐に関する伝説は日本各地に広まり、とうとう誰もが知る説話となった。当時は謡曲が盛んで、九尾の狐は格好の題材になった。謡曲『殺生石』はこの時期に生まれた。日吉安清(1382-1458)晩年の名作である。この後、物語『玉藻記』や『玉藻前』が相次いで作られた。
江戸時代になると、九尾の狐はますます人々の注目を集める。合巻『玉藻前三国伝記』、『絵本三国妖婦伝』、浄瑠璃『玉藻前曦袂』(たまものまえあさひのたもと)、歌舞伎『三国妖婦伝』など、20以上の九尾の狐伝説を題材とした文芸作品が続々と世に現れた。
戯作者の式亭三馬(1776-1822)は『玉藻前三国伝記』を書き、これを舞台に上げて人形浄瑠璃として上演した。歌舞伎として上演するときには『玉藻前曦袂』と改称された。
江戸末期になると、日本の各種文芸作品の中では中国の九尾の狐伝説に見られる妖艶にして悪辣な、恐ろしい感じが弱まり、可愛く利口なイメージがそれに代わって、大衆に受け入れられるようになった。
その後、九尾の狐に対する日本の民衆の同情心は時代を追って増していき、九尾の狐の物語も多方向の進化を遂げた。しかしそれらの中で共通していることが一つある。中国風の妖魔性が薄まり、伝奇的色合いが強調され、九尾の狐が注目すべき大衆化の対象となったことである。
中国人はおそらく、陰険で腹黒い顔をした九尾の狐が日本に「逃亡」した後、どうして堂々と弁当の包装紙の上に現れることができたのか、不思議に思うことだろう。
それは日本人の死生観と密接に関わっている。死者の霊が世の中に害悪をもたらすことへの恐れから、また死者が生前犯した罪の重荷を軽くし、死後純真に帰って更生できるようにするために、日本人は古くから死者のために僧侶を招き、念仏を唱えてその霊魂を鎮めてもらってきた。これは生者が前非に悩まされず、死者が純粋無垢な子供の心に帰るための唯一の道である。仏法を用いて死者の身分を変えるというこのような習俗は、日本の至る所に寺院がある理由であり、寺で葬式を行うことが制度化される間接的な条件でもあった。九尾の狐の好ましからぬ印象は、日本で換骨奪胎され、清純な少女へと進化を遂げたのである。
言うまでもなく、弁当屋のご主人は九尾の狐の純真に立ち返った最後の姿を選び、商売繁盛の希望を浄化された少女というキャラクターに託したのである。仏法による死者の救済の力を信じる日本人も、前世の過ちにこだわったりはしない。となれば、おいしいお弁当という目の前の現実に素直に応じるという次第である
。
王敏
中国河北省生まれ。大連外国語大学卒、四川外国語学院大学院修了。国費留学生として宮城教育大学で学ぶ。2000年にお茶の水女子大学で人文博士号を取得。東京成徳大学教授、法政大学教授などを歴任。現在法政大学名誉教授。専攻は日中比較文化、国際日本学、東アジアの文化関係、宮沢賢治研究。