エッセイ 日本で見つけた中国③:日中をつなぐ伝統文化 石碑

著者:王敏(法政大学名誉教授、当財団参与)
掲載元:人民中国2022年第6期

 飛鳥時代(593~710年)以降、 中国から伝来した石碑文化が日本に根付いている。日本の大地を見渡すと、さまざまな種類の石碑が広く分布し、ほとんどに漢字が刻まれている。こうした無数の石碑は静かに「石碑の大国」 を彩っている。

中国の石碑文化

 各種の文献を総合すると、中国の石碑の原形は春秋戦国時代(紀元前 770~同221年)にさかのぼる。方形の板石が「碑」、太鼓のような円形のものは「碣」と呼ばれた。中国で現存する最古の「碣」の原形は、唐代・貞元年間(785~805年)の陝西省鳳翔府の陳倉山(現在の陝西省宝鶏市石鼓山)で出土した太鼓の形をしたもので、 戦国時代(紀元前475~同221年)の文物だ。
 これらは10基一組で、高さ約90センチ、 直径約60センチの鼓形の石碑「碣」で、それぞれに秦代以前に使われていた書体「大篆」で四言詩が刻まれている。この詩は、秦王の盛大な狩猟の情景が描写されていたことから、「猟碣」とも呼ばれている。現在は北京の故宮博物院の石鼓館に展示されている。
漢代になると碑を建てる風習が盛んになり、多くの有名な碑や最初の墓碑が現れた。唐代に石碑文化は最盛期に達した。
 中国の古人が、石碑を建てたり伝記を書いたりすることに熱中したのは、歴史書である『春秋左氏伝・襄公二十四年』に由来する。そこには、「太上有立徳、其次有立功、其次有立言、雖久不廢、此之謂三不朽」(立派な道徳の規範を後世に残すことが最高で、その次は大きな功績を上げること、さらにその次は知識や学問を後に伝えることで、これらはいつまでも廃れることがなく、この三つを不朽という)とあり、この三位一体の価値観が石碑文化の理論的な根拠だ。
 陝西省西安市にある碑林博物館は、中国古代の石碑を最も早くから収集し、有名な石碑を最も多く収蔵する碑文化の宝庫だ。その起源は745年、唐の玄宗皇帝(李隆基)直筆の親孝行を説く儒教の経典『孝経』 を基に彫り刻まれた『石台孝経』と、837年に完成した中国史上3番目の大型の石彫刻による儒教の経典『開成石経』にさかのぼる。これらの名碑は1087年、北宋の名臣・呂大忠によって一カ所に移され、清の時代に「碑林」と命名された。現在、同博物館には漢代から清代までの石碑や墓誌3000点余りが収蔵されている。

日本の石碑文化

 日本の石碑は飛鳥時代に興った。この時期の日本文化の最大の特徴は、渡来人(移民)の進んだ文化や技術を受け入れたことだ。漢字を使い、中国の制度を手本とし、大陸の先進的な技術を導入することは、日本が飛躍的な発展を実現するための近道でもあった。石碑も自然とこの特殊な歴史時期の証しとなった。
 例えば群馬県高崎市内には、飛鳥から奈良時代に建てられた「上野三碑」 ――山上碑、多胡碑と金井沢碑がある。 この三つの石碑は日本に現存する18の古代の石碑の中で最古の石碑群として知られ、いずれも国の特別史跡に指定されている。2017年にはユネスコ (国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」遺産に登録された。
 江戸時代以降、石碑を建てる風潮はいっそう盛んになった。日本の治水神・禹王研究会の2006年から今年3月までの調査によると、全国の山や川などに分布する治水神・禹王を祭った遺跡などは168カ所に上り、そのうち石碑類が約7割を占めるという。
 禹王は『開成石経』の中の『尚書・大禹謨』に描かれた主人公でもある。人々を導いて黄河の治水・耕作を成功させ、平穏で治まった太平の世を作った。こうしたことから、民衆に幸せな暮らしをもたらしてくれる聖帝とされている。「平成」という元号も、これが出典とされている。

周恩来の詩碑

 新中国の初代総理・周恩来(1898 ~1976年)は、青年時代の1917年秋から19年春にかけて日本に留学した。時まさに辛亥革命(1911年)か ら五四運動(19年)に至る中国近代史上空前の激動の時代であった。留学からの帰国前、古都京都に泊まった周は桜が満開の嵐山を訪れ、4月5日に『雨中嵐山』と『雨後嵐山』の2首の詩を詠んでいる。
 日本の友好団体では、「日中平和友好条約」の締結(1978年)を記念し、 嵐山の亀山公園内に79年、『雨中嵐山』 の詩碑を建立した。そして中日国交正常化50周年という重要な年に当たる今年、周恩来で詩を詠んだ日と同じ4月5日に、中日両国の友人が嵐山の大悲閣千光寺境内の桜の木の下に集まり、 周が詠んだもう一首『雨後嵐山』の詩碑の落成・除幕式を行った。


 同式典には、周恩来のめいの周秉徳女史と周秉宜女史、福田康夫元首相から祝辞が寄せられた。周秉徳女史はその中で、次のような言葉を送った。「伯父は亡くなる前、重い病状にもかかわらず日本の桜を思い出し、『日本から帰国してもう55年もたったが、1919年に見た桜が満開の景色は今でも忘れられない』と話していました。それは、伯父が中日の平和友好を主張した原動力でもあったと思います。『雨後嵐山』の詩碑の建立は両国人民の平和を守る証しであるだけでなく、平和的な発展を深める証しでもあります。桜に平和の思いを託した伯父の心も、きっと慰められたことと信じています。中日両国の平和友好事業が今後も発展していくよう祈念します」
 また周秉宜女史はメッセージの中で次のように示した。「伯父の古里は淮河流域で、幼い頃から水害に見舞われた村人たちの苦難を目の当たりにしており、母方の祖父の万青選家が4代にわたって治水事業に尽くした意義を深く理解していました。伯父の『雨後嵐山』 の詩碑が、日本の禹に例えられる角倉了以(1554~1614年)ゆかりの寺に建てられることを知り、大変喜んでいます。中日の古今の『禹の魂』がここで出会い、両国の社会が共に平和で、栄えることを期待しています」
 福田康夫元首相もメッセージで、「周総理は1972年の日中国交正常化の実現に大きく貢献しました。父・福田赳夫(元首相)は、『日本を最もよく知り理解したのが周恩来総理だ』と崇敬していました。 78年に、父・福田首相(当時) が日本政府を代表し、中国と平和友好条約を結ぶことができたのも、周恩来さんの遺産である平和という懸け橋のおかげでした」と語った。さらに、「昨今の難しい時勢を思いますと、平和と友好の懸け橋が今一度欲しいと願わざるを得ません」と述べた。
 除幕式の後、来賓客は大悲閣千光寺とゆかりの深い旅館「花のいえ」に集まっていた。この地は、江戸時代の豪商・ 角倉了以の邸宅と舟番所(舟の警備・見張り人の詰所)だった。本館離れの「關 鳩楼」の名は、中国最古の詩集『詩経』の最初の詩『關雎』から取った。独特な建築様式から、「ごてんの間」とも呼ばれ、京都市が選定する「京都を彩る建物や庭園」にも選ばれた。ここには、狩野派の杉戸絵をはじめ、雪見灯籠やふすま絵など貴重な文化財が多数あり、いにしえの雰囲気に浸ることができる。


百年前のこの時、周恩来もこの地を訪れ、国境を越えて「大同」を求めた。帰国後、周は再び日本の風景を味わうことはなかったが、病に伏せっても桜の美しさを忘れることはなかった。「日本にはとても美しい文化がある」とみていたからだ。
 桜の木の下に建てられたこの『雨後嵐山』の詩碑は、周恩来の慰めになっただろう。この詩碑を守る嵐山の大悲閣千光寺は、周恩来が訪れ詩を詠んだ寺だ。周恩来の日本留学がもたらした平和の遺産は、中日国交正常化の原動力になっただけでなく、中日の世代にわたる友好と平和を築く確固とした土台となるだろう。

 

王敏
中国河北省生まれ。大連外国語大学卒、四川外国語学院大学院修了。国費留学生として宮城教育大学で学ぶ。2000年にお茶の水女子大学で人文博士号を取得。東京成徳大学教授、法政大学教授などを歴任。現在法政大学名誉教授。専攻は日中比較文化、国際日本学、東アジアの文化関係、宮沢賢治研究。

2022年06月26日